Ads by Google
新しい記事を書く事で広告が消せます。
洲本城(兵庫県洲本市小路谷) 平成19年2月17日
洲本温泉街と大浜公園を抜けて三熊山ドライブウェイへと車を走らせる。洲本城は江戸期の行政の中心であった平城と、室町期に安宅氏が築城した山城に分けられるが、今回行くのは山城の方。特に古城ファンというわけではないが、自称“妖怪研究家”としてはどうしても行きたい場所だからだ。
山頂近くの駐車場に車を止め、天守跡を目指してしばらく歩く。幸いに雨は小降りとなってくれた。山の斜面を利用した石垣などが残っていて、山上によくもこれほどのものを作ったなと、昔の人の技術と努力に感心する。いったい、これだけの石をどこから運んできたのだろう。
天守跡には昭和3年に作られた摸擬天守が建っている。展望台を兼ねているが、お世辞にも立派というものではない。城だから天守閣が欲しいという気持ちは分からないでもないが、歴史的価値は下げているだろうな… とはいえ、少し離れて石垣から見上げる風景は、それなりに立派に見える。

天守跡から大浜海岸や洲本市街を眺める。

わざわざ洲本城に足を伸ばしたのは、淡路一の化け狸「柴右衛門」の祠にお参りするためだ。
柴右衛門は三熊山に住む狸で人間に化けては芝居見物をしていた。ある日、武士に化けて大坂にまで芝居見物に出掛け、道頓堀中座に千秋楽まで通い続けたが、運悪く犬に見つかって正体を現し打ち殺されてしまった。しかし中座ではそれ以降、客足が遠のいたので柴右衛門の霊を鎮めるため、舞台下に祀ったという。天保年間に著された竹原春泉の『絵本百物語』にも「芝右衛門狸」として紹介しているし、最近では京極夏彦が『巷説百物語』でこの昔話をモチーフとした短編を書いている。
現在の祠は、昭和37年に中座にゆかりの深い片岡仁左衛門や藤山寛美らによって作られたもの。3体の狸像が置かれ、中央の像は寛美寄進という。しかし、松竹新喜劇の衰退や中座閉鎖の影響もあるのだろうか、少し荒れた雰囲気だった。ちなみに中座の芝右衛門明神は、跡地に建てられたセラヴィスクエア中座に今も祀られている。
洲本には柴右衛門以外にも、息子の柴助、女房のお増など八匹の化け狸がいる。徳島には金長や六右衛門、讃岐には八島の禿、伊予には八百八狸総帥の隠神行部など名だたる狸がいて、各地に狸伝説が点在する。洲本の狸信仰も四国の影響を受けているのだろうか。
・洲本八狸物語

天守から下り奥まった場所に八王子神社が建つ。正面鳥居をくぐって山道を少し下りると小さな祠が並んでいる。伊勢・大原・平野・松尾など十二社が祀られていて、それぞれ干支の額が掛けられていた。さらに道を下りると芝右衛門の祠を発見。こっちの方が古いようだが、信楽焼の小狸が置かれていた。その近くに八王子の祠が建っている。巨大な岩に挟まれた形で、磐座を思わせるようだ。

さて、この日の宿泊は高田屋嘉兵衛ゆかりの地、五色町の川長旅館。都志川河口付近に建つ旅館で、独特の外観をしている。さらに室内に入ればへんてこな壁画に、古道具屋を思わせるような古民具の数々。
つげ義春の作品に『枯野の宿』という短編がある。雨に降られた男が安宿に逗留すると、部屋一面に稚拙な絵が描かれていた。そしていつの間にかその絵の世界に吸い込まれていく…。部屋に入った途端そのシーンを連想させた。
お風呂は小さい沸かし湯ではあるが温泉で、湯に漬かると体がヌルヌル・スベスベする。風呂から上がって楽しみの夕食。たこしゃぶにたこ刺し、酢だこ、たこ飯とたこ尽くし。かぶと焼きやふろふき大根などもついて大満足。ついつい飲み過ぎてしまい、ふとんで横になり本を読んでいたら、いつの間にか寝てしまった。

山頂近くの駐車場に車を止め、天守跡を目指してしばらく歩く。幸いに雨は小降りとなってくれた。山の斜面を利用した石垣などが残っていて、山上によくもこれほどのものを作ったなと、昔の人の技術と努力に感心する。いったい、これだけの石をどこから運んできたのだろう。
天守跡には昭和3年に作られた摸擬天守が建っている。展望台を兼ねているが、お世辞にも立派というものではない。城だから天守閣が欲しいという気持ちは分からないでもないが、歴史的価値は下げているだろうな… とはいえ、少し離れて石垣から見上げる風景は、それなりに立派に見える。
天守跡から大浜海岸や洲本市街を眺める。

わざわざ洲本城に足を伸ばしたのは、淡路一の化け狸「柴右衛門」の祠にお参りするためだ。
柴右衛門は三熊山に住む狸で人間に化けては芝居見物をしていた。ある日、武士に化けて大坂にまで芝居見物に出掛け、道頓堀中座に千秋楽まで通い続けたが、運悪く犬に見つかって正体を現し打ち殺されてしまった。しかし中座ではそれ以降、客足が遠のいたので柴右衛門の霊を鎮めるため、舞台下に祀ったという。天保年間に著された竹原春泉の『絵本百物語』にも「芝右衛門狸」として紹介しているし、最近では京極夏彦が『巷説百物語』でこの昔話をモチーフとした短編を書いている。
現在の祠は、昭和37年に中座にゆかりの深い片岡仁左衛門や藤山寛美らによって作られたもの。3体の狸像が置かれ、中央の像は寛美寄進という。しかし、松竹新喜劇の衰退や中座閉鎖の影響もあるのだろうか、少し荒れた雰囲気だった。ちなみに中座の芝右衛門明神は、跡地に建てられたセラヴィスクエア中座に今も祀られている。
洲本には柴右衛門以外にも、息子の柴助、女房のお増など八匹の化け狸がいる。徳島には金長や六右衛門、讃岐には八島の禿、伊予には八百八狸総帥の隠神行部など名だたる狸がいて、各地に狸伝説が点在する。洲本の狸信仰も四国の影響を受けているのだろうか。
・洲本八狸物語

天守から下り奥まった場所に八王子神社が建つ。正面鳥居をくぐって山道を少し下りると小さな祠が並んでいる。伊勢・大原・平野・松尾など十二社が祀られていて、それぞれ干支の額が掛けられていた。さらに道を下りると芝右衛門の祠を発見。こっちの方が古いようだが、信楽焼の小狸が置かれていた。その近くに八王子の祠が建っている。巨大な岩に挟まれた形で、磐座を思わせるようだ。

さて、この日の宿泊は高田屋嘉兵衛ゆかりの地、五色町の川長旅館。都志川河口付近に建つ旅館で、独特の外観をしている。さらに室内に入ればへんてこな壁画に、古道具屋を思わせるような古民具の数々。
つげ義春の作品に『枯野の宿』という短編がある。雨に降られた男が安宿に逗留すると、部屋一面に稚拙な絵が描かれていた。そしていつの間にかその絵の世界に吸い込まれていく…。部屋に入った途端そのシーンを連想させた。
お風呂は小さい沸かし湯ではあるが温泉で、湯に漬かると体がヌルヌル・スベスベする。風呂から上がって楽しみの夕食。たこしゃぶにたこ刺し、酢だこ、たこ飯とたこ尽くし。かぶと焼きやふろふき大根などもついて大満足。ついつい飲み過ぎてしまい、ふとんで横になり本を読んでいたら、いつの間にか寝てしまった。

千光寺(兵庫県洲本市上内膳) 2月17日
淡路三山巡りもいよいよ最後となる千光寺へと向かう。洲本市郊外の先山は「淡路富士」の異名を持つ標高448mの山。幅は狭いながらもそれなりに整備された道なので難儀はしないが、それでも山深いことには変わりない。標高だけでいえば、一番初めの常隆寺山の方が高いのだが、感覚的には先山の方が高いように感じる。
車から降りて小さな茶店を抜けると、参道入り口に寺号碑と大木が立つ。ここからさらに石段を上る。
山号:先山
寺号:千光寺
宗派:高野山真言宗
石段を上ると山寺とは思えないほどの、大きなお堂が建っている。ただし本堂ではなく大師堂で、淡路四国八十八ケ所の第1番札所になる。本堂はさらに石段を上ったところに建つ。大師堂隣の庫裏は改修工事を行っていた。
雨はかなりきつくなり、山上とあって周囲は靄に包まれ、吐く息も白くなる。庫裏のエアコンの室外機を見ると、2匹のぬこたんがお団子のように固まっていた。あまりにもかわいいのでカメラを向けたら、その途端に逃げ出した。せっかく暖を取っていたのに悪いことをしたなぁ(´・ω・`)

石段を上った先には展望台がある。晴れていたら眺めが良かっただろうに さらに石段を上るとそこが本堂。赤く塗られた大きな仁王門が建つ。

本堂と、本堂側から眺めた境内。三重塔や鐘楼堂など、淡路三山中で最も大きな境内だ。とはいえ、今でも不便な場所に建っているのに、昔はここでこれだけの境内を維持するのは大変だっただろう。
狛犬ならぬ狛猪。千光寺開山伝承にかかわるもので、延喜元年、忠太という漁師が播磨山中で背中に笹の生えた為篠王(猪笹王:いざさおう)という大猪をいった。猪は海を越えて先山まで逃げたので、それを追いかけると猪ではなく千手観音だった。そこで忠太は出家し寂忍と名を改めて観音を祀ったという。
山岳霊場の開山伝承には猟師がかかわるものが多く、立石寺、立山、熊野、高野山、伯耆大山などが知られている。これは猟師は古の神を祀る民であり、仏教化する以前から信仰の地であったことがうかがわれる。

本尊は行基作の千手観世音菩薩で、常隆寺、東山寺の本尊と同木という。脇士は不動尊と毘沙門天。淡路西国霊場の第1番札所。堂内には大提灯が下げられ、霊場寺院の雰囲気が色濃い。
本堂裏には千体地蔵堂、六角堂などが建つ。淡路の風習で「団子ころばし」といい五七忌日に遺族は先山に登り、背を向けて山頂から谷底に団子(握り飯)を投げ、そして六角堂の閻魔王と地蔵尊に参拝するという。この団子は死者の行く手を邪魔する餓鬼に供えるものだという。これは仏教の施餓鬼(せがき)作法が習俗化したものだろう。後ろ向きというのも、仏典では餓鬼は姿を見られることを恐れるとあるので、それに由来すると思われる。
団子ころばしに見られるように、ここは祖霊の集う山なのだろう。そう考えるとこの雨や靄も霊気が漂っているように感じることもできる。

三重塔内部には大日如来が安置た。塔の扉には綾子の牛を彫った安産祈願の絵馬が奉納されていた。大日如来は牛馬の守り本尊として信仰されるので、酪農家が牛の安産を願って納めたのだろうか。

千光寺納経朱印
車から降りて小さな茶店を抜けると、参道入り口に寺号碑と大木が立つ。ここからさらに石段を上る。山号:先山
寺号:千光寺
宗派:高野山真言宗
石段を上ると山寺とは思えないほどの、大きなお堂が建っている。ただし本堂ではなく大師堂で、淡路四国八十八ケ所の第1番札所になる。本堂はさらに石段を上ったところに建つ。大師堂隣の庫裏は改修工事を行っていた。雨はかなりきつくなり、山上とあって周囲は靄に包まれ、吐く息も白くなる。庫裏のエアコンの室外機を見ると、2匹のぬこたんがお団子のように固まっていた。あまりにもかわいいのでカメラを向けたら、その途端に逃げ出した。せっかく暖を取っていたのに悪いことをしたなぁ(´・ω・`)

石段を上った先には展望台がある。晴れていたら眺めが良かっただろうに さらに石段を上るとそこが本堂。赤く塗られた大きな仁王門が建つ。

本堂と、本堂側から眺めた境内。三重塔や鐘楼堂など、淡路三山中で最も大きな境内だ。とはいえ、今でも不便な場所に建っているのに、昔はここでこれだけの境内を維持するのは大変だっただろう。
狛犬ならぬ狛猪。千光寺開山伝承にかかわるもので、延喜元年、忠太という漁師が播磨山中で背中に笹の生えた為篠王(猪笹王:いざさおう)という大猪をいった。猪は海を越えて先山まで逃げたので、それを追いかけると猪ではなく千手観音だった。そこで忠太は出家し寂忍と名を改めて観音を祀ったという。山岳霊場の開山伝承には猟師がかかわるものが多く、立石寺、立山、熊野、高野山、伯耆大山などが知られている。これは猟師は古の神を祀る民であり、仏教化する以前から信仰の地であったことがうかがわれる。

本尊は行基作の千手観世音菩薩で、常隆寺、東山寺の本尊と同木という。脇士は不動尊と毘沙門天。淡路西国霊場の第1番札所。堂内には大提灯が下げられ、霊場寺院の雰囲気が色濃い。
本堂裏には千体地蔵堂、六角堂などが建つ。淡路の風習で「団子ころばし」といい五七忌日に遺族は先山に登り、背を向けて山頂から谷底に団子(握り飯)を投げ、そして六角堂の閻魔王と地蔵尊に参拝するという。この団子は死者の行く手を邪魔する餓鬼に供えるものだという。これは仏教の施餓鬼(せがき)作法が習俗化したものだろう。後ろ向きというのも、仏典では餓鬼は姿を見られることを恐れるとあるので、それに由来すると思われる。団子ころばしに見られるように、ここは祖霊の集う山なのだろう。そう考えるとこの雨や靄も霊気が漂っているように感じることもできる。

三重塔内部には大日如来が安置た。塔の扉には綾子の牛を彫った安産祈願の絵馬が奉納されていた。大日如来は牛馬の守り本尊として信仰されるので、酪農家が牛の安産を願って納めたのだろうか。

千光寺納経朱印
伊弉諾神宮(兵庫県淡路市多賀) 平成19年2月17日
伊弉諾(いざなき)神宮へ近づくにつれ県道の両端には、奉納された常夜灯が幾つも並んでいる。一宮に対する島民の信仰が、いかに篤いかがうかがわれる。
正面の大鳥居をくぐり、拝殿へと延びる参道は、小雨模様とはいえ木々に囲まれてすがすがしい。参道を進むと、随神門前には小さな石橋が架かっていた。
当社は国生みを終えた伊弉諾尊が鎮まったという幽宮(かくりのみや)であり、『日本書紀』にも「伊弉諾尊(いざなきのみこと)、神功既(かみことすで)に畢(を)へたまひて、霊運當遷(あつし)れたまふ。是(ここ)を以て、幽宮(かくれみや)を淡路(あはぢ)の洲(くに)に構(つく)りて、寂然(しづか)に長(なが)く隠(かく)れましき」とある。
社名:伊弉諾(いざなき)神宮
淡路国一宮

随神門に掛けられた扁額には「一宮皇太神」と書かれていた。

拝殿と本殿。境内は広々としていている。拝殿では宮参りだろうか、神楽が舞われていた。
祭神は伊弉諾大神・伊弉冉大神。淡路は国造りで一番初めに生まれた島。『日本書紀』では、「先ず淡路洲(あはぢのしま)を以(も)て胞(え)とす」とある。その後、本州、四国、九州、隠岐・佐渡、北陸、大島、児島の大八洲を生んだとある。隠岐と佐渡は双子なので1と数える。聖数8にするためか?。大島は所在地不明)
縁結びのご利益があるという夫婦楠。根本の社は岩楠神社で蛭子大神を祀る。蛭子は諾冉二神が初めて生んだ子だが、不具であったため葦船で流された。そこから後世、エビス(異界から寄り来る神の総称)として蛭子を祀るようにもなる。
ただし『日本書紀』の「一書に曰く」では「日月(ひつき)既に生れたまひぬ。次に蛭児(ひるこ)を生(う)む。此(こ)の児(みこ)、年三歳(としみとせ)に満(な)なりぬれど、脚尚(あしなほ)し立たず」との別説も記載する。

境内西側の道路を挟んで本寿寺という法華宗の寺院が建つ。伊弉諾神宮のかつての神宮寺は妙京寺(法華宗)なので、この寺も何か関係があるのだろうか?
参考:日本古典文学大系『日本書紀』(岩波書店)

伊弉諾神宮納経朱印
正面の大鳥居をくぐり、拝殿へと延びる参道は、小雨模様とはいえ木々に囲まれてすがすがしい。参道を進むと、随神門前には小さな石橋が架かっていた。当社は国生みを終えた伊弉諾尊が鎮まったという幽宮(かくりのみや)であり、『日本書紀』にも「伊弉諾尊(いざなきのみこと)、神功既(かみことすで)に畢(を)へたまひて、霊運當遷(あつし)れたまふ。是(ここ)を以て、幽宮(かくれみや)を淡路(あはぢ)の洲(くに)に構(つく)りて、寂然(しづか)に長(なが)く隠(かく)れましき」とある。
社名:伊弉諾(いざなき)神宮
淡路国一宮

随神門に掛けられた扁額には「一宮皇太神」と書かれていた。

拝殿と本殿。境内は広々としていている。拝殿では宮参りだろうか、神楽が舞われていた。
祭神は伊弉諾大神・伊弉冉大神。淡路は国造りで一番初めに生まれた島。『日本書紀』では、「先ず淡路洲(あはぢのしま)を以(も)て胞(え)とす」とある。その後、本州、四国、九州、隠岐・佐渡、北陸、大島、児島の大八洲を生んだとある。隠岐と佐渡は双子なので1と数える。聖数8にするためか?。大島は所在地不明)
縁結びのご利益があるという夫婦楠。根本の社は岩楠神社で蛭子大神を祀る。蛭子は諾冉二神が初めて生んだ子だが、不具であったため葦船で流された。そこから後世、エビス(異界から寄り来る神の総称)として蛭子を祀るようにもなる。ただし『日本書紀』の「一書に曰く」では「日月(ひつき)既に生れたまひぬ。次に蛭児(ひるこ)を生(う)む。此(こ)の児(みこ)、年三歳(としみとせ)に満(な)なりぬれど、脚尚(あしなほ)し立たず」との別説も記載する。

境内西側の道路を挟んで本寿寺という法華宗の寺院が建つ。伊弉諾神宮のかつての神宮寺は妙京寺(法華宗)なので、この寺も何か関係があるのだろうか?
参考:日本古典文学大系『日本書紀』(岩波書店)

伊弉諾神宮納経朱印
東山寺(兵庫県淡路市長沢) 平成19年2月17日
常隆寺から次の目的地、東山寺へと車を走らせる。ところどころに咲く菜の花がきれいだ。しばらくすると播磨灘に沿った県道に合流する。北淡ICから下りたところは大阪湾沿いだったから、ちょうど淡路島を東から西へと横断したことになる。
東山寺は”東の山寺”と銘打っても、建っている山も低く、木々もうっそうとしていないためか、先の常隆寺に比べ明るい雰囲気。秋はモミジの名所として賑わうそうだ。
このお寺も震災ではかなりの被害を受けたようだ。境内には復興支援の呼びかけと、支援者への感謝の辞を述べる碑が立っていた。
山号:平生山
寺号:東山寺
宗派:高野山真言宗
右奥に建つのが本堂で、本尊は十一面千手観世音菩薩。行基作と伝わり、常隆寺の本尊とは同木という。ここは淡路三山の一つで淡路西国霊場の26番札所。
本堂で読経していると、小太りの少し年を召した尼さんが、お堂の掃除をするためか、パタパタと足早に境内を歩いていた。

重文の薬師如来、十二神将を安置する薬師堂はコンクリート製。元々は石清水八幡宮の別当寺に祀られていたものが、廃仏毀釈の際に当地に逃れてきたものという。
納経をお願いすると、今度は痩せた中年の尼さんが対応してくれた。先の尼さんが黒の作務衣に対し、こちらは花柄の作務衣。見事なまでに対照的。ここは尼寺三十六ヶ所霊場の25番札所でもある。「よくお参りくださいました」と言ってペットボトルのお茶を接待してくれた。

東山寺に向かう途中に建つ辻地蔵堂。地蔵尊の足元や蓮台には、救いを求める人々が彫られている。右には不動尊、左には不思議な形の石が祀られていた。背後の礎石に「弘法明神」と赤字で書かれていたが、この石のことだろうか?

東山寺納経朱印
東山寺は”東の山寺”と銘打っても、建っている山も低く、木々もうっそうとしていないためか、先の常隆寺に比べ明るい雰囲気。秋はモミジの名所として賑わうそうだ。
このお寺も震災ではかなりの被害を受けたようだ。境内には復興支援の呼びかけと、支援者への感謝の辞を述べる碑が立っていた。山号:平生山
寺号:東山寺
宗派:高野山真言宗
右奥に建つのが本堂で、本尊は十一面千手観世音菩薩。行基作と伝わり、常隆寺の本尊とは同木という。ここは淡路三山の一つで淡路西国霊場の26番札所。本堂で読経していると、小太りの少し年を召した尼さんが、お堂の掃除をするためか、パタパタと足早に境内を歩いていた。

重文の薬師如来、十二神将を安置する薬師堂はコンクリート製。元々は石清水八幡宮の別当寺に祀られていたものが、廃仏毀釈の際に当地に逃れてきたものという。
納経をお願いすると、今度は痩せた中年の尼さんが対応してくれた。先の尼さんが黒の作務衣に対し、こちらは花柄の作務衣。見事なまでに対照的。ここは尼寺三十六ヶ所霊場の25番札所でもある。「よくお参りくださいました」と言ってペットボトルのお茶を接待してくれた。

東山寺に向かう途中に建つ辻地蔵堂。地蔵尊の足元や蓮台には、救いを求める人々が彫られている。右には不動尊、左には不思議な形の石が祀られていた。背後の礎石に「弘法明神」と赤字で書かれていたが、この石のことだろうか?

東山寺納経朱印
常隆寺(兵庫県淡路市久野々) 平成19年2月17日
昨日まではいい天気だったのに、この日になって雨模様とはつくづく日ごろの行いの悪さを悔やむ。と、反省するフリをして淡路島へ向かう。明石海峡大橋を渡り北淡ICを下りてしばらく田舎道を進む。すると「常隆寺」への小さな案内板が細い脇道を差していた。
車1台がなんとか走ることができる山道なので、「対向車が来ませんように」と願いつつハンドルを握る。
山頂近くに常隆寺は建つ。桓武天皇勅願、早良親王(崇道天皇)霊安寺。淡路三山の一つ。
山号:栗村山
寺号:常隆寺
宗派:高野山真言宗
釣り鐘の下がった山門。

左奥に建つのが本堂で、本尊は十一面千手観世音菩薩。行基が当地で光を放つ栗の大木を刻んで安置したという。淡路西国霊場の31番札所。

護摩堂は本堂の左側に建つ。曇り空のせいかもしれないが、古い石塔などが立ち幽玄な雰囲気がする。
本堂と護摩堂の間に石鳥井が立ち、さらに山上へと続く小道がある。この付近は椎や杉などの原生林で県の天延記念物に指定されている。しばらく歩くと鈴木重胤(幕末期の国学者)が天神地祇が拝んだ場所という石碑が立っている。
さらに歩むと小さな社に到着。ここは伊勢の森と呼ばれ、常隆寺山の山頂になるが、展望はあまり良くない。標高は515.3m。伊勢から大和、淡路に連なる緯度34度32分を「太陽の道」と称するが、ここも太陽信仰、天道信仰の場所だったのだろう。栗の木が光明を放ったという開山伝承も、クリは「来る」の転訛と考えれば古代の太陽信仰が仏教化したものだろうか。

常隆寺納経朱印
車1台がなんとか走ることができる山道なので、「対向車が来ませんように」と願いつつハンドルを握る。
山頂近くに常隆寺は建つ。桓武天皇勅願、早良親王(崇道天皇)霊安寺。淡路三山の一つ。山号:栗村山
寺号:常隆寺
宗派:高野山真言宗
釣り鐘の下がった山門。

左奥に建つのが本堂で、本尊は十一面千手観世音菩薩。行基が当地で光を放つ栗の大木を刻んで安置したという。淡路西国霊場の31番札所。

護摩堂は本堂の左側に建つ。曇り空のせいかもしれないが、古い石塔などが立ち幽玄な雰囲気がする。
本堂と護摩堂の間に石鳥井が立ち、さらに山上へと続く小道がある。この付近は椎や杉などの原生林で県の天延記念物に指定されている。しばらく歩くと鈴木重胤(幕末期の国学者)が天神地祇が拝んだ場所という石碑が立っている。さらに歩むと小さな社に到着。ここは伊勢の森と呼ばれ、常隆寺山の山頂になるが、展望はあまり良くない。標高は515.3m。伊勢から大和、淡路に連なる緯度34度32分を「太陽の道」と称するが、ここも太陽信仰、天道信仰の場所だったのだろう。栗の木が光明を放ったという開山伝承も、クリは「来る」の転訛と考えれば古代の太陽信仰が仏教化したものだろうか。

常隆寺納経朱印



